『キングダム』を読み進めていると、避けられない問いに出会う。
──「信は最後に死ぬのだろうか?」
龐煖との死闘で一度は命を落としかけ、羌瘣の力で蘇った信。
その姿は、単なる戦いではなく「死と継承」というテーマを私たちに突きつけてくる。
この記事では、物語に描かれた信の“死”と“復活”、そして史実に残る李信の最期を重ねながら、
彼の運命を考察していく。
『キングダム』での信の死亡シーン
龐煖との死闘で一度心臓が止まる場面と、その後の蘇生描写が理解できる
「死」と「蘇生」の物語的意味
ご都合主義ではなく、信が志を背負う存在へと変わる通過儀礼として描かれていることがわかる
史実の李信の実像
『史記』に残る戦歴、楚戦での敗北や趙・燕での功績など、モデルとなった将軍の姿を知ることができる
李信の最期に関する謎
史料に残されなかった死因や没年、その不在がもたらす“歴史の余白”を考察できる
物語としての「信の死」の可能性
死が描かれない結末と、漂から受け継いだ夢を完成させて死ぬ結末の両方を読み解ける
朝倉透的な人生への示唆
信の死と継承の物語を通して、「亡き人の想いをどう生き継ぐか」という私たち自身の問いに触れられる
『キングダム』で描かれる信の死亡シーン
数ある戦の中でも、信の死を最も強烈に印象づけたのは──龐煖(ほうけん)との戦いだ。
コミックス58巻、626話前後。
武そのものを体現する龐煖に対し、信は漂から受け継いだ思いを武器に挑む。
その姿は「人の意志」と「孤高の力」との激突そのものだった。
しかし、戦いの終盤で信は力尽き、地に崩れ落ちる。
仲間たちの叫びも届かず、彼の胸は静かに上下を止め──「心臓が止まった」ことが明確に描かれる。
飛信隊を支えてきた存在が失われた瞬間、戦場には絶望の色が広がった。
その光景は読者に衝撃を与えた。
「主人公ですら死ぬのか?」という不安。
「いや、きっと立ち上がるはずだ」という祈り。
ページをめくる手が震えるほどの緊張感が、あの場面には宿っていた。
そして──物語は静かに、しかし決定的に転じる。
羌瘣が禁術を発動し、信を現世へと呼び戻そうとする。
その過程で信は、漂や過去の仲間たちと再び出会い、「まだ終われない」という意志を思い出す。
やがて彼は息を吹き返し、仲間の前に立ち上がるのだ。
この瞬間、読者は悟る。
信は一度「死んだ」──そして「物語のために蘇った」のだと。
それは単なるご都合主義ではなく、天下の大将軍に至るための「通過儀礼」であり、物語における必然だった。
\心を燃やした、あの勇姿をもう一度/
/あの感動があなたを待っています\
史実の李信──信のモデルとなった将軍の実像
『キングダム』の信には確かなモデルが存在する。それが、春秋戦国末期の実在の将軍、李信(りしん)である。李信の字(あざな)は「有成」、出身は槐里(現在の陝西省咸陽市興平市)。
その姿は『史記・李将軍列伝』『史記・王翦列伝』などに断片的に記され、戦国末期を駆け抜けた若き秦の将として名を残している。
史書『史記』によれば、
「于是始皇问李信:『吾欲攻取荆,于将军度用几何人而足?』
李信曰:『不过用二十万人。』
始皇问王翦,王翦曰:『非六十万人不可。』」
(始皇帝が李信に「楚を攻めるのにどれほどの兵が必要か」と問うと、李信は「二十万で足ります」と答えた。これに対し王翦は「六十万なければならぬ」と主張した)
出典:司馬遷『史記・白起王翦列伝』 (中国哲学書電子化計画 CTEXT)
これは前224年、楚攻めに際しての記録だ。
秦王政(のちの始皇帝)は李信に二十万を授けたが、李信は敗れ、軍を失った。
その後、王翦に六十万を与え、楚を滅ぼさせた──ここでの記録が、『史記・王翦列伝』に記されており、李信と王翦のコントラストは非常に鮮やかだ。
つまり、李信は史実において「勇猛さと未熟さ」を同時に体現する将であった。
若さゆえに大敗を喫しつつも、戦の最前線に立ち続ける姿は、『キングダム』で描かれる信と重なり合う。
また、李信が史書に登場する時期は比較的“遅く”、前229年頃という説がある。
それ以前の記録は希薄であり、その若年期や家柄、訓練の過程などは史料に乏しい。
彼が関わったとされる「斉(せい)」討伐戦での活躍は確かな記録がある。『秦滅齊之戰』では、李信、蒙恬、王賁らが斉王建のもとへ進軍したことが記録されており、この戦いで斉国が降伏する様子も史書に詳しい。
また『史記・高祖本紀』には、李信の子孫が漢の時代に至っても列侯として名を連ねていたとある。
これは、李信が単なる敗将ではなく、秦末から漢初へと血脈を繋いだことを示している。
しかし、史記その他の正史にも、李信の晩年・最期に関する記述はほとんど見当たらない。前221年の秦による六国の統一が達成された後、李信がその後どのような立場で生きたのか、あるいはどこで死んだのか──これらは史料上、明記されていない。
一部の学説では、斉討伐後の李信について、失敗した戦役(たとえば城父の戦いなど)での責任を問われ、重罪を免れたもののその後世間から姿を消した可能性を指摘するものがある。
ただし、これを裏付ける具体的な一次資料はまだ見つかっておらず、「暗殺説」や「粛清説」はあくまで推論の域を出ていない。
これらの史実の“空白”──記録の終わり、最期の不明瞭さ──が、物語としての“信”のキャラクターを創る余地を生んでいる。
原泰久先生はその空白に、読者の希求と想像を織り込むことで、「信」という存在をただの武将以上の象徴へと昇華させているのだ。
\心を燃やした、あの勇姿をもう一度/
/あの感動があなたを待っています\
李信の最期はどうなったのか?
李信の名は『史記』の数カ所に記録されているが、驚くべきことにその最期については一切触れられていない。
楚戦での敗北、燕や趙への遠征での活躍──そこまでは確かに記されている。だが「どう死んだのか」は、史書が沈黙しているのだ。
たとえば『史記・王翦列伝』には、王翦の楚攻略の功績が鮮烈に描かれているが、同じ戦で敗れた李信の後日談は極めて淡い。
また『史記・高祖本紀』では「李信の子孫が漢代に列侯となった」と記されるが、李信自身の死因や没年には一切触れていない。
「李信之後,至漢為列侯。」
(李信の後裔、漢に至りて列侯となる。)
出典:司馬遷『史記・高祖本紀』 (中国哲学書電子化計画 CTEXT)
つまり、李信の死は歴史から消えている。この沈黙こそが、後世の想像をかき立ててきた。
研究者の間ではいくつかの仮説が立てられている。
- 病死説──戦乱の続く環境で病を患い、自然死した可能性。
- 戦死説──楚戦以後も前線に立ち、記録されない戦で命を落とした可能性。
- 粛清説──秦帝国の権力闘争に敗れ、記録ごと抹消された可能性。
この不在の記録は、歴史の偶然か、それとも意図的な「削除」だったのか。
いずれにしても、李信の最期が記されなかったことは、彼を歴史の影に沈めると同時に、
『キングダム』の信に「どんな最期を描くか」という創作の自由を与えている。
史実の沈黙と、物語の声。
その狭間で、信の運命は私たち読者に委ねられているのかもしれない。
\心を燃やした、あの勇姿をもう一度/
/あの感動があなたを待っています\
物語としての「信の死」はどう描かれるのか?
『キングダム』は史実を土台にしながらも、ただの歴史再現ではない。
だからこそ、信の「死」が描かれるかどうかは、歴史的必然ではなく物語としての必然によって決まるだろう。
信の死は描かれない可能性
ひとつの可能性は、信の死は描かれないという結末だ。
秦の中華統一を見届けたあと、信は健在のまま幕を閉じる。
そのとき読者は、ページの外で信が生き続けている姿を想像できる。
それは、史実の「李信の最期が不明」という事実と見事に呼応するだろう。
信の死をあえて描く可能性
だがもうひとつの可能性は、信の死をあえて描くことだ。
龐煖との戦いで一度「死」を経験した彼が、最後には本当の死を迎える。
そのとき彼の死は単なる終わりではなく、漂から受け継いだ夢の完成として描かれるに違いない。
考察
『キングダム』における信の死は、悲劇ではなく「継承」の物語になる、と。
大将軍という夢は、信一人で完結するものではなく、仲間へ、次の世代へと受け継がれる。
それは私たちが現実で経験する「亡き人の想いを引き継いで生きること」と同じ構造を持っている。
人はいつか死ぬ。だが「志」は死なない。
物語における信の死は、その普遍の真理を示すだろう。
そしてきっと読者は涙しながらも、その姿に自分自身の人生を重ね、
「自分もまた、誰かの物語を生き継いでいるのだ」と気づくのではないか。
『キングダム』は戦の物語であると同時に、
「死をどう生き継ぐか」という普遍的なテーマを抱えている。
だから信の死は、彼個人の終わりであると同時に、私たち自身の問いでもあるのだ。
\心を燃やした、あの勇姿をもう一度/
/あの感動があなたを待っています\
まとめ──信の死は“終わり”ではなく“継承”の物語
龐煖との戦いで一度「死」を経験し、蘇った信。
その姿は、ただのフィクションを超えて、「人がどう生き、どう受け継いでいくのか」を映し出しているように思えます。
史実の李信の最期は不明。
だからこそ、作者・原泰久先生には「信をどう生かすか、あるいはどう死なせるか」を選ぶ自由があります。
その余白に、私たちは自分の想いを重ねられるのです。
- 信は死なず、秦統一を見届けてページの外で生き続ける
- 信は死を迎えるが、それは漂から託された夢の完成として描かれる
どちらの結末であれ、信の死は「終わり」ではなく「継承」を意味する。
仲間に託された想い、未来に引き継がれる志──それこそが『キングダム』という物語の心臓部なのでしょう。
私は思います。
信の最期を想像するとき、私たちは結局「自分の人生」を考えているのだと。
誰かの夢を受け取り、次の誰かに渡していく。
それは、戦場を生きる信と変わらない、私たちの日常の営みです。
『キングダム』は戦の物語であると同時に、
「人は、誰かの物語で生き続ける」という真実を私に教えてくれるのです。
──朝倉 透(Mild Life)
この記事のまとめ
・死は描かれない → 秦統一を見届け、読者の想像の中で生き続ける
・死をあえて描く → 漂から受け継いだ夢を完成させて死ぬ
亡き人の想いを生き継ぐという普遍的なテーマに重なる
参考文献・出典
- 司馬遷『史記・白起王翦列伝』
(中国哲学書電子化計画 CTEXT)
- 司馬遷『史記・高祖本紀』
(中国哲学書電子化計画 CTEXT)
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